月刊『プレイボーイ』(集英社)1994年5月号 PLAYBOY INTERVIEWより
劇作家志望だった父は新聞記者となりそして東京新聞の代表となった。ガンで倒れた死の病床からの父親の説得にもかかわらず息子は意思を曲げることなく、ただ小説家への道を選んだ。多国籍化し、犯罪多発都市への道を歩む東京を舞台にしたハードボイルド小説『新宿鮫』は、シリーズ4部作で100万部を突破、ついに最高峰の直木賞を息子にもたらすこととなった。1月13日、受賞の知らせが届いたのは、その父の命日前夜であった。そして息子は、37歳での自分の受賞は作家世界の課長への昇進、未来に期待してくれと楽天的に語った。直木賞はひさびさに「読ませてくれる、書き続けてくれる」作家に与えられた。
※PB 月刊『プレイボーイ』編集部
PB 直木賞受賞おめでとうございます。
大沢 ありがとうございます。
PB 賞をとられてから忙しくなりましたか。それとも『新宿鮫』をお書きになったころからすでに十分忙しい、そこに直木賞というところでしょうか。
大沢 小説を書く量のマキシマムは、例えば月500枚とか300枚とか、人それぞれで、ぼく自身直木賞をとる前の段階でほとんど限界に近い量が入ってましたから、仕事の量が倍に増えたということはないですね。
PB 今回受賞して、やっと一人前に成人したなという感じですか?
大沢「冒険作家クラブ」のことから話さなければならないんですが、創世記のころ、そこに所属するハードボイルドないし冒険小説の書き手たちは日本ではマイナーリーグでした。本が売れない作家の寄り集まりと言われていた。そんなメンバーのなかで、まず北方(謙三)さんがスターになって、そのあと逢坂(剛)さん、西木(正明)さん、船戸(与一)さんと次々賞をとり、スターになっていった。メンバーのひとりひとりに陽が当たっていった。 創世記のメンバーの中では、ぼくは最年少だったけど、気持ちのなかでは同期。むしろキャリア的には最も古いほうで、そんななかで焦りがなかったと言えば嘘になります。いつか彼らと同じところに並ばなければと。また、先に行った仲間たちからも「何をグズグズしているんだ、早くこちらへこいよ」と友情のこもった罵声が飛んできて。(笑)
それが4年前、『新宿鮫』で陽が当たって「日本推理作家協会賞」と「吉川栄治文学新人賞」というふたつの賞をいただいて、けれどそのふたつではまだ足りない気がして、今回の直木賞でようやく並んだというところでしょうか。
PB 37歳で直木賞をおとりになったわけです。授賞式のスピーチで、これで課長になった気がする。同世代の中ではスピード出世だけど、このあと窓際にいく可能性もあるとおっしゃって、非常に面白かった。
大沢 直木賞は、何度か候補になってようやく栄誉を手にする人が多い。賞というのは、作家にとって大きなニンジンですから十分目標になるわけです。すぐれた作品を書く原動力になります。が、とったときにホッとしてそれまでの疲れが出てしまうこともある。疲れを許される直木賞というのもあるかもしれない。しかし、ぼくは初めての候補で受賞、これでホッとしてしまうことは許されない。とったことで次を考えなさいという賞です。受賞はゴールであると同時に、次のレースのスタートラインです。先に行った仲間たちに追いついたと思ったら、じつは彼らはもう次のスタートを切っていたというのが実感ですね。
PB 人生には三度のチャンスがある、といいます。将棋の世界で、大山名人のときは三度目のチャンスまでじっと待った。次の中原さんの世代になると、二度目のチャンスで動きだす。さらに若い羽生さんは最初のチャンスから仕掛ける。大沢さんも一度目の候補で受賞した。これは時代の流れなんでしょうか。
大沢 確かに社会的な流れで言うと、「七転び八起き」が通用しにくい時代になってきた。かつては失敗が人を強くするという感覚で見られてきたが、今は一度の失敗がすべてを無にしてしまうという時代です。その意味で、非常に厳しい時代です。
直木賞は一度目の候補で栄冠をつかんだとも言えるが、受賞の言葉の中で「早かったのか、遅かったのかわからない」と書いたのは、これまで作家として15年間やってきて一度も候補にならなかったという点から見れば、遅かったと思うからです。チャンスに恵まれていなかったとも言える。
PB 『新宿鮫』シリーズで新しい読者を獲得したわけですが、大沢さんはそれまで『初版作家』と言われてきた。どれくらいの読者がいたんですか。
大沢 一番読者がいたのは、「アルバイト探偵」シリーズで、これが1万5、6000人ほど、まあ全体的には、確実な読者は5000人くらいだったんじゃないかな。
PB カルトな熱狂的ファンが15年間くっついてきたことは確かですが、若い人はカルトを突き詰めていくとその果てにメジャーがあると考えている。しかし年寄りはカルトなものはカルトで終わると。『新宿鮫』4部作の読者数は100万人を超えた。まさに今日の異端は明日の正統というか、到れば通じるという思いはありますか。
大沢 いや、ぼく自身が大部数を望んでいたかと言うと、これは素直に言いますが、ぼくはベストセラーを書こうと思ったことは一度もないんですよ。
PB 本当ですか?
大沢 本当です。自分が書くものが何かの文学賞の対象になることはありえても、ベストセラーになることはありえないと思ってきました。なぜかというと、最初から殉じているハードボイルドというジャンルは、ベストセラーを生まないとずっと言われてきた。しかし現実には、『新宿鮫』はベストセラーになった。なぜかというと、これは読者の変質なんですね。
いま、日本の推理小説、エンタテインメントの世界は、大きな地殻変動が起きている。まず新しい書き手がこの10年くらい続続と輩出してきた。しかも彼らは読者に支持されてきた。たとえば高村薫さん、船戸与一さん。しかし彼らははたして10年前、20年前、これほどの読者を獲得しえたか。おそらく「否」。では、この10年間に何が起こったかというと、自分たちの使っている言語に近い言語で小説を書くエンターテイナーを読者が求めるようになってきたということです。10年は短いようだけど、10歳の子供が20歳になる、言わば5000人しか読者がいなかったジャンルが、いま10万人の読者のジャンルに変わった。この10万人が大きな地殻変動の根底にあって、新しい作家たちにスポットライトを当てさせている。
大沢在昌を「永久初版作家」から「ベストセラー作家」にしたのは、個人としては成熟があったかもしれないが、時代変化の要因のほうが大きい、そう思うんですね。
PB その「永久初版作家」のころ、生島治郎さんから「半荘に1回は良い手がくる。そのときまで勝負を投げるんじゃない」と励まされ書き続けてきた、と受賞エッセイに書かれていました。
大沢 ええ。受賞スピーチで、サラリーマンに例えて話したんですが、このまま平社員で終わりたくないと、つまりプロジェクトを一発成功させて係長になりたいと思っていたということです。しかし仕掛けたプロジェクトがすんなりはまるとは限らない。作家活動をしてきて、仕掛けようとしたことはあるんです。この作品が何かの賞の対象になるかもしれないと、丁寧な書き方をし、自分のもっている引きだしの中身もさらってある作品の中に投影させた。直木賞は2階級特進の課長ですが、せめて係長、いや係長心得でもいい、あるいは係長を選ぶ際の選考対象になるだけでもいいと自分は期待した。ところが、その『氷の森』という作品は受賞どころか何の候補にすらならなかった。正直言って、デビュー以来、不安感というか焦燥を感じたのは、『氷の森』を出し、賞の時期に何もなかったときでしたね。
PB 失望はどのくらい続きましたか。
大沢 あまり続かないですね。ぼくは引きずらない性格なんで。ただ子供が生まれたときで、この連載1本に絞ったので生活も苦しくなった。といっても極貧なわけではなく同い年のサラリーマンに比べれば収入はあったと思うんですけれどね。仕事は減りましたが家族は増え、支出は倍になった。
PB 焦りましたか。
大沢 いや焦りはしないけど、去年は変な道楽をしてしまったなあと、今年はちゃんと仕事をしなければというところです。そこで、約束していて放ったらかしになっていた光文社のカッパノベルスの書き下ろしをやろうと思った。それが『新宿鮫』を書き始めた真相です。これを書き始めたときはもう、この作品で賞をとろうとか、ベストセラーを出そうなんて少しも思っていなかった。前の作品で空振りしていたので、正直な話、少しでも売れる本を書かねばならないということでした。
PB 塁に出ようと。
大沢 そうではなくて、なんだろうな。ホームランを狙った後の打席ですから、フォアボールでもいいからやはり塁に出ようということだったかな。
PB 『新宿鮫』のことを伺いましょう。今の多国籍化する新宿をどういうふうに心の中に浮かべ、どう掬いとろうとしたのか。
大沢 いや『新宿鮫』の舞台が実際の東京都新宿だとは思っていないんです。これはあくまでも実在の新宿に仮託された「新宿」であって、地名や大きな建物は実在のものを使ってますが、これを読んで今の新宿がこのとおりだと思う人はいないだろうし、思ってもらっては違うんです。ただ、新宿で起きうるだろうこととして事件を書いてます。といっても、新宿に対して例えば月に1回、定点観測をしに出かけるかというとそんなことはしない。相変わらず、六本木に住み、六本木で遊んでるわけで、新宿の情報を必ずしもこまめに手に入れているというわけではないんです。
PB 新宿は新宿御苑とか舞台の設定がやりやすいということは関係ありましたか。
大沢 いや、新宿御苑もたまたまあったということで、例えば『毒猿』の構想を考えていたとき、最後の大激闘をどこでやるか、なかなか決まらなかった。はじめ都庁とも思ったが、そうだ、新宿御苑があるじゃないかと。新宿に浜離宮があれば浜離宮にしたかもしれないが、たまたま新宿御苑だから『新宿鮫』にスンナリ繋がってしまった。そういう偶然に『新宿鮫』は助けられているんですね。
PB 最初の『新宿鮫』はどれくらいの期間でお書きになったんですか。
大沢 3ヵ月足らずだと思います。
PB 1日コンスタントに何枚と決めて書かれるのですか?
大沢 いえ、書き出しの段階では、非常に苦悩して、最初の15枚くらいを3度くらい書き直しています。最初の100枚までは結構時間がかかって、あとの残りはほぼ1ヵ月半で書き終えた記憶があります。
PB よく作家は自分でないものにつき動かされて書くといいますが、『新宿鮫』は自分のなかでも、立ち上がりが違うぞという意識はありましたか。
大沢 それはありました。書いている最中に、ある種情熱に浮かされている状態というか。最初の100枚まで書いたところ非常に手ごたえがいいので、ホテルに入りませんかと少し缶詰になったんですね。ここで200枚ほど、鮫島が木津に捕まり桃井に助けられるあたりから次のクライマックスまでの作品の骨になる部分を書いたんですが、そのとき、極端に作品にエネルギーを吸い取られていくような、そういう意識がありました。
じつは『新宿鮫』を書いているときだけ起きるのですが、非常に握り汗、手のひらに大量に汗をかくんです。背中や腋のしたには少しも汗をかかないのに、なぜか手のひらにだけ原稿用紙が汗でべたべたになって波をうってしまうほど汗が流れる。ティッシュペーパーでは間に合わずテーブルにタオルを置き、100字ほど書いては汗をとってという状態でした。それが非常に不思議でした。作品の中にある緊張感っが自分の手に伝染してきているのではないか、そう感じました。
PB では体重も落ちた?
大沢 いやずっと座っているので、それはむしろ太りますがね。(笑)
PB イギリス型の作家は朝9時から書き始め夕方5時に仕事を終え、ディナーは家族と食べる。アメリカ型の作家は奥さんといろんな話をし、一緒に旅をし、奥さんがファーストリーダーになったりする。大沢さんの場合は、どういうタイプの作家だと思われますか。
大沢 ぼく自身、他の作家と比べ、特異な面は、切り替えのバランス感覚と集中力ではないかと思いますね。仕事がONのときとOFFのときの切り替えが非常にはっきり可能ですね。だから家に帰って家族と旅行に行ったり、釣りに行ったり、大勢の仲間と遊んでいるとき、まったく仕事の話をしたいとも思わない。一方、書き始めると集中して、比較的短時間で書いてします。
PB ファーストリーダーは奥さんですか?
大沢 まったく違いますね。仕事場と自宅が離れていて、ぼくは自宅にはいっさい仕事を持ち込まないし、家内もほとんど興味がない。ぼくがどこの雑誌に何を書いているかもまったく知りません。本は家に持ち帰ることもありますが、読む読まないは向こうの自由ですし、カミさんの哲学として、亭主だから特別扱いはしないと。作家としてみた場合、例えば船戸さんの『山猫の夏』のほうが面白いと、これは彼女一流のアイロニーなのか、本心から区別をしない平等主義者なのか。
PB 小説が佳境に入ると家になかなか戻れないということはおありなんですか。
大沢 いまは約束事として、週末は仕事をしない、だから家に帰る。しかしウイークデイは家に帰らないという夫婦間の取り決めになっています。
PB 書くのは、ワープロですか?
大沢 ぼくは手書きです。ワープロは試してみたことがあるんですが、習熟するまで時間がかかる、それが我慢できなかったですね。
PB 100枚書くとき、捨てる原稿は何枚くらいですか?
大沢 ゼロですね。ぼくは原稿を破ってすてることはほとんどないですね。ひとつには万年筆ではなくシャープペンシルで書くのでミスは消しゴムで消して書き直しますから。といっても3行以上書いてしまったものを消すことは非常に稀ですね。
PB 作家というものの頭の構造はどうなっているんだろうと興味があります。
大沢在昌における発想のテクニックというか、例えば模造紙に絵を描くとして、ラフなデザインができて、大沢さんは隅っこから塗っていくという感じでしょうか。
大沢 1回ざっと書いてこの部分をもう一度色づけするという描き方をする人と、画面の左端から右端まで順序だてて描いていくと1回で絵が完成していくタイプがいるとすれば、ぼくは後者のほうでしょうね。
PB それは淡泊ということでしょうか。
大沢 そうかもしれないですね。あまり手を加えたことで作品がよくなるという気がしないんです。推敲はしますけど、その結果作品の内容が大幅に変わるということはかつてないです。これまで書いた中で、50枚以上書き直したものはないですね。
PB さて、『新宿鮫』シリーズとそれ以前の作品はどこが違ったのか。ひとつは主人公を警察官にしたことが大きな差だと思うんです。ハードボイルドというと、主人公は権力の外にいて、権力に頼らない。その意味でいうと、『新宿鮫』を最初読んだとき、はたしてこれはハードボイルドかなと思いました。
大沢 『新宿鮫』を書いたとき、組織に属しているという意味では、ぼくにとっても初めての主人公であったわけです。あれがハードボイルドかどうか、ぼく自身迷ったところがあった。ただぼくはハードボイルドの確信犯で、ハードボイルド小説との出会いによってハードボイルド作家になるんだと決心し、ここまで来た。
常に考えてきたことは、今のハードボイルド小説とはどういうものかということです。例えば、アメリカのハードボイルドはいま完全に閉塞状態にある。第2次大戦後、ロス・マクドナルド、ロバート・B・パーカー、プロンジーニと出てきたが、じつはどれもハメットやチャンドラーによって築かれたスタイルから踏み出していない。
では、ハードボイルドとはもう完成されてしまったジャンルで、それぞれの時代の主人公にその時代の衣装を着せるだけでいいのか。簡単に言ってしまうと遠山の金さんは中村梅之助がやろうが杉良太郎がやろうが遠山の金さんで、最後のお白洲の場面で桜吹雪を見せればいいのか、それがハードボイルドなのか。しかし、ぼくはそれでは嫌だと思ってきた。新しいハードボイルドを読みたいと。パーカーが出ればこいつじゃないか、ヴァクスが出ればこいつじゃないか、でも違うんだよなーという違和感がいつもあって、納得できないものを感じ続けてきた。
一方、日本の状況はもっとひどく、ハードボイルドそのものがまったく理解されない時代があった。あれはアメリカのドライな空気のなかで私立探偵が免許制で、警官と同じように武装できる社会だから成立するジャンルで、日本でハードボイルドが成立するわけがないというのがハードボイルドが好きだという人たちのなかにもあった。気の利いたせりふを言ったって合わないよ、というのがあった「冒険作家クラブ」の登場で若干状況が変わってきたのですが。
じつは、ぼくにとっての新しいハードボイルドとは、さっき言った『氷の森』がひとつの答えだった。が、これはうまくいかなかった。だから、『新宿鮫』を書き始めたとき、もう新しいハードボイルドをこれで書こうという気持ちはまったくなかったんです。
PB 気負いがなかったともいえる。
大沢 ところがこれが出たとき、新しいハードボイルドだという評価を周辺がした。これは不思議でしたね。もっとも、ぼくのなかにあるハードボイルドの定義はどんどん変わってきているんです。最近、ぼくは、ハードボイルドとはあえて言えば「惻隠の情」であると思っている。
PB 『新宿鮫』のなかにおける上司の桃井ですかね。
大沢 桃井というのは、じつは旧時代のハードボイルドなら『新宿鮫』の主人公だった。したし、いまは重要なバイ・キャラクターではあるがヒーローではない。鮫島がヒーローである。ヒロインの造形もまったく違う。昔のハードボイルドのヒロインは柱の陰からそっと見送るが、僕が考えた晶というヒロインはまったく違う。『自分ひとり怪我してそれでかっこいいと思ってんのかよ』みたいなことを言う。ハードボイルドと反対のキャラクターです。鮫島もロックの作詞をするとか、はずしていく部分をつくっている。はずすというのはそれ自体実験なわけで、主人公が命がけで闘った後で、ヒロインから「お前バカじゃないの」と言われてしまうハードボイルドというのは過去になかったと思う。そういう意味で『新宿鮫』はやはりぼくにとって新しいハードボイルドになったのではないかと。
PB 大沢在昌は何人データマンを使っているんだと思う人がいると思いますが。
大沢 ぼくはデータマンをひとりももっていません。『新宿鮫』を書き始めたとき、警察に関する本はひとりで集めてリストを作ったんです。何歳で警部補になるとか、かき集めた本と首っぴきで年表を作ってみました。さらに隙間を想像で埋めて、そうしたら、良く調べましたねと言われ、それほど的外れではなかったんだなと。
PB 書斎派として資料をみるのが主という作風ですか。
大沢 基本的にはそのスタイルですね。自分の足で動くのは、例えば「台湾クラブ」に行くように、臨場感を出すための取材であって、あとの多くは空想で隙間を埋めていく仕事のほうが圧倒的に多いです。
PB つまり市販の資料からあれだけのことが書けるということですね。
大沢 そうですね。『新宿鮫』2、3では、詳しい人からサジェスチョンを受けました。例えば現役の警部に殺人と汚職の嫌疑がかかったとき、警視庁内部はどう対応するか。これはずっと警視庁キャップをやってた知人の記者から聞かせてもらったんですが、警察OBから話を聞いたことは一度もないですね。
PB 『新宿鮫』シリーズと並行して書いた六本木が舞台の近未来小説『B・D・T 掟の街』があります。ある雑誌で、インタビュアーが『BVD』は良かったですねと言ってて、ひっくり返りましたけどね。(笑)
大沢 いや、ずいぶん間違われましたよ。『B・D・T』は、ボディコン、Dカップ、Tバックの略かとか。(笑)
PB あそこにあるのは、多国籍化する東京に対する危機意識というか、その辺がテーマですか。
大沢 常にぼくの場合、動機というのはもっと単純で、書き手としての興味から始まるんです。ぼくは主人公が差別されるような小説を書きたかった。しかし、今の日本の出版状況のなかでは、差別される人物を書くと出版は不可能。だから架空の状況のなかで辛うじて主人公がマイノリティーとして差別される、差別に耐えながら真実を追求していくというストーリーを作ったんです。それがまず『B・D・T』という骨子を考えたときの最大の動機です。
当初、もっと遊びに徹した作品にしようと思っていたけど、設定とかけ離すことができない多国籍化の問題を考えていったとき、非常に危険なことに気づいたんです。それは単純なエンタテインメントにしてしまうと、外国人は怖いですよ、外国人を入れてはだめでうすよ、という安直な警鐘のメッセージをもたせた作品になりかねないという危惧です。
それはぼくの考えとまったく相反します。出稼ぎで日本に来てるとしても、彼らは同じ人間である以上、快楽を求める。酒を飲み、女性を欲し、恋愛をする。これは当然の成り行きで、止められるものではなく、止めたらおかしい。もう見ない振りもできないし、排斥もできない。それを早く行政が理解し、対処しないとこういう事態になるというのが『B・D・T』のメッセージです。
PB ところで、ぼくら偏差値世代ですが、大学のAがいくつでどこそこの会社に就職みたいな、そんななかで、大沢さんは最初から作家になるんだと宣言していた。これは勇気なのか、無謀なのか。
大沢 中学時代から小説家になろうと思って書いていましたが、大学に入ってからは全然書いてないんです。もっと言えば、大学をクビにならなかったら、中学、高校のときの決意をもち続けていられたかどうか。そこそこ低空飛行で卒業できていたら、それなりのところに就職し、そのまま行ってしまったかもしれない。大学をクビになったことは、自分にとって最大の衝撃でした。
PB 退学させられると気づかなかったんですか?
大沢 絶対何とかなると思っていた。えっ、ホントにダメなの? って感じです。本当にダメとわかったとき、目の前真っ暗でしたよ。
PB いま聞いて思ったんですが、作家として大成するには、ヌケ作の楽天的なものが必要なのかもしれない。
大沢 そうかもしれない。退学後、こうなったら作家しかないと再び習作を始めたんです。すぐにまた書けるようになり、これならいずれという気持ちになる。ただ、いずれがいつかはわからない。親は、一体いつそんなことが可能かのか、一体だれが、作家になれると保証しているんだと。そんなものはない、でもできる。なぜなんだ。そのとき、ぼくは初めて母親の前で「おれは天才なんだから絶対可能なんだ」と言った。ぼくが真顔で人に「おれは天才なんだ」と言ったのは、このときだけです。実際天才と思っているかどうかではなく、あのとき、ぼくがぼくを信じなかったら、他にはだれも信じている人がいないのですから。母親は完全に精神に異常をきたしたと思ったみたいです。
PB あっちにいってしまったと。母親を懸命に口説いたわけですね。
大沢 というか、向こうがぼくを口説いているわけです、目を覚ませと。母親が言うのも当然だと、ぼくの理性はわかってるけれど、そう思わざるをえないわけです。
PB 受賞エッセイ『まっすぐなまわり道』(『かくカク遊ぶ、書く遊ぶ』角川文庫に収録)に書いていますね。同人誌をやってる同世代の連中に「お前はなぜ文学を目ざすんだ?」と問われ「銀座にベンツに軽井沢」と答え顰蹙を買い、作家になる資格がないと言われたと。
大沢 ぼくはそこそこ豊かな暮らしはしたかったんです。それには作家の道しかないと。そのころ愚かにも、作家とはみんな稼ぎがあるんだと思っていて、億万長者は無理でも、別荘くらい持てるだろうと。当然の話で、ぼくが知っているのはみんな当代の流行作家ばかりなわけですから、清貧の作家とか純文学作家はわからないわけです。しかし、ベストセラーを書くのがいかに大変か、作家になって思い知るんです。
PB 作家デビューが23歳、『小説推理』の新人賞ですね。
大沢 新人賞を受賞した後、もっとシビアな現実がおそいかかってくる。これはみんな同じことを言いますが、デビューすれば翌日から原稿依頼の電話がガンガン鳴って、本を出せばバンバン売れてと勘違いしている。作家になることと作家であり続けることの違いがわかっていないんです。
PB 新人賞をとってから、どのくらい注文がこなかったんですか。
大沢 受賞第1作が雑誌に掲載されたのが、3ヵ月後。その年、ぼくが小説を書くことで得たお金は40万円。賞金が30万円で、第1作が10万円でした。
PB トホホですね。
大沢 青くなりましたよ。おい、話が違うと、こんなバカなと。ところが受賞第1作を読んだある新しい出版社がミステリーの書き下ろしをやらないかと。当時、新書戦争が勃発していて、カッパ、角川、講談社、双葉社と、とにかくまったくの新人にも書かせていて、まず双葉社で書き、つぎにサン・ノベルズというところで2冊目の小説を書いた。この2作目は『ダブル・トラップ』という、このとき、自分よりも年上の男を主人公にした作品を初めて書いたんですが、これが比較的業界内部で、内藤陳さんとか北上次郎さんとかの評論家筋の方に着目され、その後、各社の新書書き下ろしの仕事がぽつぽつ入ってきて、とりあえずひとり食っていくには何とかなってきた。しかし、まだ一生食べていけるとは思っていなかったんですね。
PB 小説家だめなら、他の仕事をやるとか思わなかったですか。
大沢 小説家を捨てる度胸はなかったですよ。小説売れないから古本屋やろうとか、そういう気にはまったくならないんだから。とにかく書くしかないという気持ちでした。幸いにして、担当編集者がだんだん増えていって、ぼくは恵まれていた。『あなたには力があるから』と言ってくれる人たちがいた。だから、いつかおれは花開くだろうと。ベストセラーは書けなくても、いつか何か賞はひとつくらいもらえるかもしれないと思っていました。
PB 『まっすぐなまわり道』のなかで父親のことを印象深く書いています。お父上というのは、中日新聞の専務で、東京新聞の代表でしたが、元は劇作家志望であった。
大沢 父親からうけついだものは確かにあったかもしれません。同時に環境がそれにふさわしかった。にもかかわらずと言うか、そうであるが故にと言うか、小説家になることだけは父親が一番反対した。父親は、他のどんな職業でも好きな職業を選んでいいというリベラルな考え方をしていましたが、物書きに対してだけはアレルギーをもっていました。
PB 〝長いまわり道になるだろう〟と。
大沢 そうですね。人生の皮肉というか、運命的なものを感じましたね。
PB そのお父上は、ガンで亡くなられた。
大沢 ぼくがデビューする3ヵ月前の昭和54年1月に亡くなりました。じつは亡くなる前に投稿していたのですが、これは皮肉な偶然でしたね。ただ、生きていたとしても、新人賞の受賞ではたして父親が許したかと言えば、これははなはだ疑問です。
PB 亡くなる直前に、就職もせず小説家の夢にぶらさがっていた息子に対して、お父上が病室で、「お母さんが工事現場で働いている夢を見た」というのは痛烈ですね。
大沢 ぼくがバクチに狂って家の財産を使いこむとか、そういうことでしたらありえるでしょうが、現実にはそれほど困窮することにはならないだろうと思っていましたから、それを聞いたときはちょっと驚きましたね。
PB 不思議なもので、子供は親のもっとも望まないものを目ざすというところがありますね。
大沢 ぼくが『オール讀物』の新人賞候補になったときは、父はまだ生きていたんです。そのときの父親の反応は「だからどうした」というもので、非常に冷淡なものでした。ところが、母親から聞くと、非常に喜んでいたと。つまりそういう人間だったんですよ。ぼくが直木賞とったときに、父が勧めていた新聞社から母親がインタビューを受けた。「もしお父様が生きていたらなんておっしゃったでしょう?」と。母親は多分こう言ったんでしょうと答えた。「キミが直木賞? 間違ってるんじゃないか」。確かにそう言っただろうと思いますよ。